祖父の戦争体験の話

2022年10月18日

今日は祖母の命日だったので、祖父の家へ行ってきました。
そこで、気まぐれに始まった、祖父の戦争体験の話。
録音したわけではないので、覚えている範囲で書かせていただきます。
かなりショッキングな内容やグロテスクな内容も含まれますので、心の準備をなさってからお読みください。

祖父は、17歳で召集され、18歳で軍の指令部隊に配属、20歳で終戦を迎えるまで、命令が下るたびに偵察機に乗って、国内はもちろんグアム、サイパンなどへも飛んでいたそうです。

一番印象に残っていると言っていた場面。
とある中尉を小さな偵察機の後部座席に乗せ、サイパンかグアム(祖父の記憶があいまいのようです)へ向かう途中にアメリカ軍の攻撃を受け、後ろの中尉に声をかけたが返事がなく、当時ほぼアメリカ軍に制圧されていたフィリピンに危険を承知で、唯一まだ残っていた日本軍の粗末な滑走路に緊急着陸。
祖父の偵察機は3発の銃撃を受けていて、そのうちの1発が後ろに乗っていた中尉の頭を直撃、着陸直後に祖父が後部座席を振り返ったら、その中尉は頭をうなだれて動かなくなっていて、後部座席は血の海だったそうです。弾は中尉の頭を貫通し、機内の壁に突き刺さっていたとか。
後部座席は祖父のいた運転席から1mも離れていず、19歳だった祖父はショックでしばらく体の震えが止まらなかったと言っていました。
その後、祖父の偵察機の攻撃で穴が開いた部分を布と松ヤニを塗り重ねてふさぎ、また同じ偵察機に乗って報告のために日本へ戻ったそうです。もちろんその途中も敵軍の攻撃を掻い潜って。代わりの飛行機なんてないですからね・・・

終戦間近の頃になると、一度は特攻隊へ異動を命じられたものの、再び指令部隊に呼び戻され、今度は特攻隊が発信するたびに、それがどうなったか見定めに行くように命令されたとか。
要するに、敵の攻撃を掻い潜りながら、特攻隊の最後を見届けるという過酷な指令です。

特攻隊員として散っていった若者たちは、当時の新聞などでは堂々と格好よく飛び立っていったようなことを書かれていたようですが、実際は決してそんな恰好いいものではなく、「本当は死にたくない」と泣いたり、最後の水杯を交わすところで、ガタガタと震えて盃を持っていられない状態になっていたり・・・。
500キロの爆弾とわずかな燃料だけを積んだ特攻の飛行機に乗り込んだら、後は死ぬしかないんですから当たり前のことです。拒否することは許されません。

祖父は、飛び立った特攻機がどうなったかを見届けるために、何度も敵の攻撃を掻い潜り偵察に行きました。
仲間が目の前で次々と死んでいくのを目の当たりにして、言い表せないほど辛かったそうです・・・。
敵の軍艦に体当たりして散った者、敵軍に届かないまま爆死した者、敵軍に当たらなかったものの多少の打撃を与えることができた者・・・
敵の軍艦が沈んだのを見ても、嬉しくもなんともない、とにかく辛かったと。

さらには、終戦直前になると、特攻機もどんどん粗末なものになり、敵の軍艦に到達する前に羽が気圧で吹き飛び、爆弾だけの状態で落ちて行くのも多く見たらしいです。

戦争になると、人の命はゴミのように捨てられていく・・・虚しいですね・・・
祖父は「戦争は、人の命と経済をめちゃくちゃにする。大量のムダ金が戦争につぎ込まれ、大量の人の命が捨てられる」と語っていました。
本当にそうですよね。
祖父は、戦争体験を語ってほしいと言われているそうなのですが、70年前の話で記憶もうろ覚え、とにかく混乱した時代で、いつ何が起こったかは記憶があいまいなのと、大勢の前で辛い体験を語ることが苦痛なのだそうです。
どうしてもと頼まれて、戦争体験を話に行ったそうなのですが、「この場面とさっきの場面の順番はどうなっているのか?」「さっき言っていたのはいつのことか?」などと聞かれ、困り、責めたられているようでしんどかったと。
気まぐれに私たちに話すのは質問攻めにあうこともないし、自分が話したい時に話しているので大丈夫だそうです。

戦争体験を聞くのは良いのですが、聞く側の方々にお願いがあります。
語る側は高齢なこと、思い出すのも辛い内容を一生懸命語っていること、記憶があいまいな部分もあること、これらを承知した上でご配慮いただきたいなと思います。